重力

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delicious

ラカンの用語に「寸断された身体」というものがある。
これは幼児が自分の鏡像に自己の身体的統一性を発見する
「鏡像段階」以前の身体像を指すのだが、
なるほど鏡はいつまで経っても不思議なものだなと。

ここで当然のことを再確認する。

1.鏡はその対象を水平に反転させた形でモノを映す。
2.鏡はその対象と映された対象を繋ぐ線分を二分する位置に存在する。

仮に対象=自己以外の有形物とすると、
各々の自己はその対象を客観視可能であり、
そしてその姿を「真の在るべき形」と定義付け可能である。

「Livres」と書かれた箱は、箱の内側(箱にとっての自己)
からすると所謂「鏡像」が「真の在るべき形」となるが、
一般的にはその箱は「Livres」の箱となる。

では対象=自己の場合。
人が自分の身体を見ることができるのは首から下である。
頑張れば鼻と口くらいは見えるかもしれない。
人の足の親指は自分で見る限り、左足の親指は足の右側に、
右足の親指は足の左側についている。
それを第三者が見ると、対象=自己の右足の親指は左側の足の右側に、
左足の親指は右側の足の左側に見える。

対象=自己が鏡の前に立つと

「鏡像」の左側の足は、紛れもなく自分の左側の足であり、
親指は右側についている。右側の足も同様である。

これは当然のことである。

では自分の額に日頃文字を書く順序で「Livres」と書くと、
第三者からその額に書かれた文字は「鏡像」と認識される。

つまり水平反転は自己VS他者の関係でありながら、
「鏡像」として現出する自己は自己VS自己となる。

これは「分身された身体」とでも呼ぶのだろうかと
ツマラナイ思考を廻らすhappy valentine's day!


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2007.02.14 comment(0)

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